いつき美術画廊 presents

アトリエ訪問
鈴木マサハル


1945 神奈川県横浜市に生まれる/1964 武蔵野美術大学入学/1966 第一美術展奨励賞、神奈川県展最高賞受賞/1971 安井賞展出品/1977 フランス留学、パリ美術学校に学ぶ 〜’78/1978 サロン・ドートンヌ展出品/1979 デ・ボザール展ボザール賞受賞/1980 ル・サロン展出品/1984 I・M・A国際現代美術家協会大賞/1986 同協会林武賞受賞/1987 神奈川県展文部大臣賞受賞・杜人会展出品(東京セントラル美術館)〜’88/1992国際芸術文化賞受賞/2004 個展(上野松坂屋)

無所属
全国百貨店・画廊にて個展多数開催


・・・先生の作品は、赤い色がとても特徴的ですね。

子供の頃から絵を描くのが好きで、高校時代は美術部に入っていたんですよ。それでスケッチに行こうということになり、当時父が車を買いましたので、那須高原にドライブがてら連れて行ってもらったんです。1週間ぐらい滞在したかな、那須高原には有名な殺生石があるのですが、その遊歩道から紅葉を見ましてね。燃えるような赤い色に感動して、夢中でスケッチしたのを覚えています。どことなくもの悲しく,美しい風景でした。赤は忘れられない思い出の色なんです。

・・・殺生石といいますと。

殺生石は、昔から数々の伝説が残る史跡なんですけれど、9尾の狐の妖怪が石に化けて、近づく者に毒気を出して命を奪ったという伝説が残っているところなんです。日蓮によって退治されたんですけどね。それと赤にまつわる思い出は、もう一つありまして、これも高校生の頃の話なんですが、僕の住まいの近所に鉄工所があったんですが、そこには溶鉱施設があり、炉が真っ赤に燃えていました。その赤い色も心に焼き付いているんです。それに赤い色は、日本の日の丸の色でもありますしね。
丁度その頃だったと思いますよ。絵描きになろうと思ったのは。当時はねマラソン選手か絵描きの、どちらかになりたかったんです。ただ今は違うけど、昔はマラソン選手じゃ食えないからね。

・・・美術クラブに入ってらしたとお聞きしましたが、当時から油絵を描いてらっしゃったのですか。パレットの絵の具がとても鮮やかですね。

すごいでしょ。パレットではほとんど混ぜないで、実際に描きながら、画面に色を置いていくんです。絵の具の置き方は自分流、これでもバランスをとって色を出しているんですよ。

・・・作品もそうですが、パレットを拝見していて確信を持ったのですが、先生の作品は、フォービズム的タッチが濃厚ですよね。奔放なタッチ、強烈な色彩、色彩が氾濫しているように見えて、秩序を持ち。それでいて色彩が陽気に踊りだしてくる。やはりフランスに留学されたことに、影響がありますか。

パリで4年間デッサンを勉強しました。天窓から流れ星が見えるようなアパートでした。とても貧乏でしたけれども、今では楽しい思い出です。パリでは、人物デッサンも勉強しましたけれども、やはり僕は風景が好きですね。僕の作品は細かい線は筆で描きますけれど、ほとんどペインティングナイフで描いているんですよ。 ペインティングナイフの方が、素早く色をのばしたり、画面を削ったりすることができますし、肉厚な濃厚な画面を作れますからね。でも僕は、留学する前は、アブストラクトを描いていたんです。僕が絵を勉強していた70年代は、実験的な現代美術が隆盛を極めてましたからね。今も活躍している若江漢字と一緒にやっていた時代もありました。当時僕も巨大な階段を制作したりしていたんですが、安井賞に出品する為に具象に戻ったんです。

・・・そうすると先生の作品のべースには、アヴァンギャルドが芽吹いておられるんですね。

そうですね。僕の作品は具象から抽象、そして具象へと変遷しました。パリでは、マティスやルオー、ヴュイヤールによって創立された、サロン・ドートンヌ展に出品したりもしたんですよ。そうそう。フォービズムで思い出しましたけれども、フォービズムというのは、ある批評家が、サロンでの展示において、マティスの作品を皮肉った言葉から生まれたんですよ。評論家にしてみれば、新しい感覚の大胆な筆致に戸惑いがあったんでしょうね。少しこじ付けみたいに聞こえるかもしれませんけれど、僕の名前を片仮名にしたのは、ルという字が跳ねているからなんです。ピカソのような自由奔放さに憧れがあるんですよ。絵を描いているのですから、一生の内にNO1を目指したいですしね。

・・・NO.1といえば、美術年鑑では、組織に属さない作家の一番初めのページに、お名前が記されてますよね。

依頼はひっきりなしなんですけれども、最近は、たまには自然の中で農作物を育てたり、小鳥と戯れたりしたいと思うよ(笑)。

・・・ところで具象へ変わられてからは、今の作風になられたんでしょうか。

そう。1982年に日本に戻ってきて、東山魁夷さん達の作品を、カレンダーにしている有名な企業から「作品をカレンダーにしませんか」と誘われたんです。それが今の作品に、つながるきっかけだったのかもしれませんね。運が良かったのか、そこからいろいろな出会いが生まれて、ある企業は、僕の作品をすごく気に入ってくれて、「自社の本社ビルを絵にしてくれませんか」という依頼をくれたり、作品を有田焼にして社員全員に配ってくれたりしたんです。

・・・カレンダーは一般の方がお家に飾られますから、作品にインパクトがなければ駄目ですね。

一般の人が気に入ってくれるということは、とても大事なことなんですよ。親しめる作品でなければ、飾ってくれませんからね。元々肉厚な絵の具の作品は、カレンダーには向かないという風潮がありましたけれども、作ってみたらゴッホの好きな日本人にはなじみがあったみたいで、とても好評だったんです。でもインパクトが強いだけでは駄目ですよ。ある意味、情熱的な中にも、風が流れるような流動感がありませんとね。それとやはり色へのこだわりはありますね。見る人が幸福感を感じられるような、元気になれるような色使いをしませんとね。僕は、セーヌとかニースとかも描いているのですけれど、その場合は、ブルー系の色を多く使います。なぜかといえば、パリはさわやかなブルーで演出し、イタリアは赤で活力が溢れるようにしたかったからなんです。

・・・先生の作品は、元気を与える絵なんですね。

見る人に親しみを持ってもらうには、一生懸命に一つのことを追い続け、自分のスタイルを作って、それを描き続けることですよ。その努力をしなければ、人には伝わりません。それと人との和は大事にしなければいけないと思いますね。今までチャリティーには随分出品しました。僕の作品が何台もの車いすになったりワゴン車に、なったりしているんですよ。絵を通じて少しでも、困っている人を助けたいと思いますね。

どうもありがとうございました。

(横浜のアトリエにて取材)

 


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